京都五山とは、京都にある禅宗寺院の大寺5つを選んで第一位から五位まで格付けた制度で、中国にならったものです。
五山は、時期により変遷がありますが、至徳3年(1386)足利義満が創建したばかりの相国寺を第二位とし、南禅寺を「五山之上」にした時に確定しました。足利氏は禅宗を支援すること厚く、室町時代は禅宗の文化が大きな流れとなって、日本文化の主流となりました。
この展覧会では、保守的な土地柄の京都に新しく中国からもたらされた禅宗が定着するまでをたどる第1章から2章、足利将軍家と禅僧の関係をみる第3章、五山僧の文芸活動、画僧の描いた水墨山水などを展示する第4章、禅宗寺院に安置された仏像、法会(ほうえ)に用いられた仏画などを集めた第5章という5つの章で構成します。
第1、2章では禅僧の気迫に満ちた風貌に触れることで強い意志、厳格な修行を偲ぶことができるでしょう。また、死の直前の苦しい息のもとで筆をとった遺偈(ゆいげ)にもご注目ください。14世紀以降、将軍や各地の守護、貴族などがさかんに禅宗寺院を建立しました。彼らが魅かれたのは、宗教としての禅だけでなく、禅がもたらした中国の文化でした。ただし、当時の中国の文化すべてを受容したわけではありません。
王朝文化の伝統をもつ京都が新来の中国文化をどのように受け容れたかというのがこの展覧会のみどころです。
五山は、時期により変遷がありますが、至徳3年(1386)足利義満が創建したばかりの相国寺を第二位とし、南禅寺を「五山之上」にした時に確定しました。足利氏は禅宗を支援すること厚く、室町時代は禅宗の文化が大きな流れとなって、日本文化の主流となりました。
この展覧会では、保守的な土地柄の京都に新しく中国からもたらされた禅宗が定着するまでをたどる第1章から2章、足利将軍家と禅僧の関係をみる第3章、五山僧の文芸活動、画僧の描いた水墨山水などを展示する第4章、禅宗寺院に安置された仏像、法会(ほうえ)に用いられた仏画などを集めた第5章という5つの章で構成します。
第1、2章では禅僧の気迫に満ちた風貌に触れることで強い意志、厳格な修行を偲ぶことができるでしょう。また、死の直前の苦しい息のもとで筆をとった遺偈(ゆいげ)にもご注目ください。14世紀以降、将軍や各地の守護、貴族などがさかんに禅宗寺院を建立しました。彼らが魅かれたのは、宗教としての禅だけでなく、禅がもたらした中国の文化でした。ただし、当時の中国の文化すべてを受容したわけではありません。
王朝文化の伝統をもつ京都が新来の中国文化をどのように受け容れたかというのがこの展覧会のみどころです。