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被災63周年 東京大空襲資料展
東京大空襲資料展
と き 2008年3月8日(土)~11日(火) 午前10時~午後5時 ところ 浅草公会堂ギャラリー(入場無料)

 太平洋戦争の末期、1945年(昭和20年)3月9日の深夜、東京の下町一帯は天をも焦がす業火に包まれました。
この日午後5時頃、マリアナ群島の米軍基地を発進したB29戦略爆撃機325機は、13,000発のナパーム焼夷弾を抱え、東京に向かいました。その狙いは、木と紙でできた家屋が密集する旧浅草、本所、日本橋を含む東部地区を焼夷弾攻撃で焦土と化すことだったのです。10日午前0時7分から午前3時まで続けられたこの大空襲で、10万人余りの死者、11万人余りの負傷者、そして家屋の焼失約100万戸という惨劇が生じました。広島、長崎の原爆による被害にも匹敵するものです。
 空襲は、軍事施設ではなく下町の人家密集地域を狙ったものでした。無数の市民が逃げ場を失い、炎に包まれて焼死し、身元不明のまま葬られました。まさに大量虐殺です。犠牲者の遺族はいまだに花を手向ける墓も持てず、毎年3月10日に墨田川べりを訪れ、当時をしのんで冥福を祈っています。
 この悲劇を2度と繰り返してはならないとの思いを込めて、東京大空襲資料展を毎年3月10日前後に開いてきました。

東京大空襲犠牲者追悼集会

資料展風景


浅草公会堂入口

会場入口

会場受付

東京大空襲の経過

戦時中の日用品

焼け跡の写真

写真を見る人々

体験者の絵

体験者の絵

絵を見る人々

灯火管制下の部屋

ビデオを見る人々

戦時中の服装

談話コーナー

焼けたいちょうの樹
イベント案内


寝床家 道楽
浅草戦跡めぐり

コース [言問橋~浅草寺周辺]
被災体験者の言葉

人間が火だるまになった

中川文子(80歳)

私は当時18歳、向島家政女学校の学生で、女子挺身隊として本所郵便局で働いていました。母と弟、妹3人は新潟へ疎開していました。
 1945年3月9日の夜、空襲のサイレンとともに一人で防空壕に入っていました。外の様子がいつもと違います。しばらくして、外に出てびっくりしました。空は真赤な火の海です。焼夷弾は空中で破れつして火の玉になって落ちてきます。荷物を置いて逃げると、亀戸駅前は人、人で、右往左往して大変なさわぎでした。私はやっとここで父と会うことができました。
 二人で大通りに向かって歩きだしました。そのうちに両側が燃えだし、周りは火の海です。風にあおられて歩くことができません。大通りの中央にみんなで一列になって座りこんでしまいました。
 滝のように火の粉が降ってきます。私も父とお互いに火の粉を払いながらじっと座っていました。立ち上がったら火だるまになってしまいます。赤ちゃんを抱いたまま「助けて、助けて」と叫びながら髪の毛に火がつき燃えていく人、どうすることもできません。私の目の前をおばあさんが火だるまになって飛ばされていきました。脇にいた息子さんが子供を抱きしめたまま「おっかさん許してくれ、許してくれ」と悲痛な声で叫んでいました。
 夜が明けてみると、一面焼け野原、そして足元には死体の山です。父のかかともとろけるようなひどい火傷、私も数か所痛むところがありました。生き残ったのが不思議でした。
 思い出すのもいやという心境ですが、二度とこのような悲惨な戦争をくりかえさないため、私たち体験者が真実を伝え、平和運動のお役にたてばと思います。

生き残ったものの声

間條古登(1997年没、享年80歳)

1945年、3月9日夜から翌未明にかけての東京大空襲で数知れぬ焼死体と、はるか遠くまで拡がっている焼け跡は無惨そのものでした。
 幼い子どもを背負い、5歳の子供の手を引きながら、毛布や布団などもかかえて、私たちは近所の母子二人と急いで焼け跡に避難したのです。穴ぼこのような壕に入ってふるえていました。空にはごうごうと編隊の飛ぶ音がしていました。
 毛布をかぶって壕の中にいても、誰一人ものを言えません。そのうちドーンというものすごい音がして、私は腰をひどく打ったようでした。背中の子の腰から足をさすってみて、温かいので少し安心しました。
 敵機が去って、はい上がってみると、背中の子の頭部がせんべい大に切り取られて、ザクロのように割られ、脳漿(脳の粘液)が飛び出していました。そばには40センチばかりの焼夷弾の空筒がころがっています。
 2歳9ヶ月のこの子にろくな食事もさせられず、菓子などは見たこともない可哀相な子供が、私の代わりにやられてしまいました。
 しかし、世の中には一家全滅のところ、家族全員を失い弧老となって生きている人びとなど、たくさんの被害家族がいます。
 あの戦争の惨苦。政府は海外派兵などというもくろみをたくらんでいます。絶対に武力は使わないでほしい。平和こそ世界の人びとの願いだと思います。

来展者の感想

小学生 (年齢9歳)

 東京が燃えたなんて、信じられませんでした。平成に、生まれてよかったです。本を見て死んだ人の体が残酷でした・・・。
まるで、ミイラみたい。今、これをみれていい機会だったと思います。

会社員 (年齢23歳)

 今日はたまたま浅草に来て、偶然看板を見かけて入ったのですが今日が東京大空襲があった日だったことを入って初めて知りました。(学校で習っただろうけど忘れてしまっていました)。
まさに今日、365日ある中でだった1日の今日、ここに足を踏み入れた事・・・
導かれたのだなと強く強く思います。写真から、遺品から、当時の人々の無念さ、想いなどひしひしと伝わってきました。かけがえのない尊い命がひとつとして無差別に無意味に奪われることがないよう次世代の子供達へ伝えていかなければと思いました。私達の世代はその使命があるのだと思いました。

無職 (年齢69歳)

 今から62年前にこんな悲しいことがあったのが信じられないです。それに比べて現在のあまりにも幸せに日本中・世界中の人々がなれてどうすることも出来ないはがゆさを強く思います。
我が家の主人も下町(錦糸町)で3/9に逃げ迷って現在があることこの上なくありがたく思っています。もっともっと若い人たちにこの光景を知らせて考えてもらえたらと切に思います。
今日はお墓参りに来てこの場に会えた事を感謝しています。ありがとうございました。


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